僕は「パワハラ」を受けている。
被害者は僕だけではないが。
心機一転、転職した。その転職先で出会ったその人物。
これまで僕が出会ってきた人たちとは180度違う人種である。
この年齢で初めて出会ったその新人種に、初めは驚き、次に落ち込み、
そして反省し、そのうち怒りが沸いてきたりと、自分の心の変化と混乱に戸惑う日々が続いている。
法的手段などを考える前に、自分でなんとかできないものかと、真剣に考えた。
過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる
パワハラテクニック
とにかく正論
これに尽きる。
正論とは正しい理論であり、覆すことができない。
物事は結果の繰り返しであり、目の前で起きていることは、人が動作した結果を連続で見せてくれる。
「結果」が生じるまでには、「過程」があり、そのどちらにも人それぞれの解釈がある。
そして物事には100%ということは、ほとんどありえない。
要は、いくらでも文句をつけられるというとだ。
出来上がった結果とその結果に至るまでの過程を、とにかく正論で攻めるのである。
野球で例えるなら・・・・・
三振をすれば、その結果と日々の練習内容が悪いと言い。
ヒットを打てば。なぜシングルヒットなのか、なぜそっちの方向に打ったのかと言い。
長打を打てば、なぜホームランを打たないのか、技術やパワーが足りないと言い。
ホームランを打つと、もっとランナーが溜まっているときに打つのが本物プロだと言う。
これをチームメイトの前で威圧的に大きな声で指摘する。
まぁこんな感じ。
仕事は個人競技ではない。チーム競技である。
普通にしている分には、余程のことがない限り、助け合い補い合いながらゴールすることができる。
なのに、たった一つの事、至極小さな事さえも正論攻撃を発動する。
さも、お前のせいでこの仕事が台無しになった!と言わんばかりに。
攻撃を目的にしているのなら、人間心理をかき乱す最高の方法だろう。
正論攻撃を受けた側
正論なので正しい。自分を修正する部分は、多少なりともある。
そうなると、「自分が悪い」という結論を自分で導き出す。
その事が、反論や理由を言い訳に感じ、正論の否定を無意味に感じて、パワハラを受け入れる原因となる。
そしてパワハラに対して「謝罪」するのだ。
そして、自分を改善させようとし、追い込まれていく。
仕事中は細心の注意を払い、どんな小さなミスさえも見逃すまいと必死になる。
必死になればなるほど、「やるべき事」が膨らんで時間に追われ、そして気持ちの余裕が無くなり、自分を客観視できなくなり、焦りやプレッシャーから、本物の「ミス」を発生させる。
またパワハラ指摘を受け、更なる威圧感が次の「ミス」を誘発する。
もう悪循環の始まりである。
自分の能力(価格)がどんどん下がっていく。
デフレスパイラルである。
周囲の反応
初めのうちは、パワハラ人種に対して、悲観的な目を向けている。
しかし、実際に不のスパイラルに陥って、本当の「ミスを繰り返す」ことにより、周囲の雰囲気が変わってくる。
実際にミスをしているのだから、強く出られても仕方ないと・・・・
こうなってくると、自分が辛くなる。味方を見つけづらくなり、そして周囲の目が気になる。
どんどん孤立していくのだ。孤立した感覚に陥っていくのだ。
分析してみる
子供のころは「他人の嫌がることはするな」「人には優しく」
など、他人を尊重し、慈しむ心が育つようにと教えられてきた。
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大人になってからは、私生活および社会人生活において、周囲の人間の大切さを感じる場面が多く訪れる。
パワハラをする人は、他人をどう思っているのか?
そこら辺の心理を解説した記事を読んでみても、意図的に他人を攻撃する気持ちが
さっぱり分からない。
市販されている心理学系の本を読んでみた。
下記はその内容を要約したものだ。
パワハラをする人間というのは、往々にして自分の生い立ち(特に両親との関わり)に問題があり、自分に自信が無い。
人は誰でも完ぺきでは無く、自分の能力に不安があるものだ。その事をパワハラ人間は許容できない。不完全な自分を他人に受け入れてもらえると思えないからだ。
このことから、自分に完ぺきを求める。他人の指摘が怖いから。
他人から指摘されないよう、普段から模範的な行動をとるようになる。
正義や道徳の仮面をかぶり、それを脱線する他人を攻撃し始める。
模範的な行動をとり続けることは、辛いことである。本当は辞めたい。でも辞めれない。
だから模範的行動をとらなくても周囲に受け入れてもらっている人間を、攻撃の対象とするのだ。
他者は人生を謳歌しているように見えるが、パワハラ人間は他人の評価を気にしているため不安が尽きない。ミスをしても補ってくれる人間関係を持っていないから。
不完全な自分を許容してくれる人間関係を公的にも私的にも持っていないから。
自分を取り囲む他者を羨む心が、他者への攻撃の原動力となるのだ。
ピッタリの解釈だと思った。
パワハラ人間は「仕事が出来る」と思われている人が多いというのも、納得できる。
パワハラのアンケートで「そんなつもりは無い」だとか「指導の一環だ」とか「どこからがパワハラなのか良くわからない」だとかそのような内容を目にする。
だがしかし、やっている本人が一番わかっている。
自分が「攻撃」しているのかしていないのかが。
こと仕事の内容になると、専門的な内容が多く、また社内であっても当人同士のこれまでの経緯が分からないので、フォローしずらい部分が多い。
パワハラの場面に出くわしても、せいぜい上役から注意されることと言えば、「大きな声を出すな」程度。
証拠を残すには、ボイスレコーダーですべての会話を録音することが一番有効な手段に思える。
いずれ僕はやろうと思っているが。
視点を変えてみる
どうして僕はこんなに辛いのだろう?
大まかに分けると「プライド」が傷つけられ、さらに「他人からの評価(イメージ)の悪化」を気にしていることが分かる。
ここに一つの心理があるのではないか。
周囲から出来ないヤツと思われたく無い、パワハラをしている相手からバカにされたくない。要は他人を気にしている。他人の評価を。
こういう「自分以外からの評価」を気にするあまり、自分で自分を追い込んでいく源が発生するのではないのだろうか。
僕の大好きな本である「嫌われる勇気」を参考にしようと思った。
自分の課題と他者の課題とに分けて考えることにした。
自分が精一杯やった結果は、素直に受けとめよう。
その先は、他者の課題だ。
僕の結果をどう評価付けするかは、もう僕がコントロールすることはできないのだから。
僕はただ精一杯やるのみ。
他者を大切に思うからこそ、言葉遣いや服装や仕事の結果などを気にしながら生きている。
嫌われたくないから。もしくは良い評価を得たいから。
だがしかし、自分が良いと思っていても、それは必ずしも他者も良いと思ってくれるとは限らない。
大事なのは自分らしく振舞う事。
飾らず背伸びせずにだ。
成長していくことと背伸びすることは全く違う。
背伸びとは、つま先立ちし無理をしているということ。地に足がしっかりとは着いていない。
しっかりと地に足を付け、一歩ずつ階段を上っていけばいいのだ。
その階段を上っていく様が、他人からどう見られるかは、僕にはコントロールできない。他者の価値観であり、他者の美学である。
まさに他者の課題なのだ。
パワハラを受けて気づいたこと
他人の評価を気にしないことは、とても難しいことだと思う。
強力な鈍感力が必要だ。
もし社内での評価が悪くなり、退社に追い込まれたとしても、そのことが、僕がいなくなったことが会社の損失になったと、後にでも気づかせるような人材であればいい。
そういう自負を持てる人間であれば、それでいいのだと思う。
幸いにも僕は一人ではない。温かく接してくれる関係者と、信頼のおける友人に囲まれている。
パワハラヤローとはまったく違う人間関係を社会に構築している。
ダウンタウンの松ちゃんの言葉
100点は無理かもしれんけど、MAXなら出せるやろ
そう、様々なことにMAXで立ち向かえばいい。
僕が出来ることは、ただそれだけだ。
さて、Amazonでボイスレコーダーを物色してきます。
少しでも誰かの心に響けたら!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。