人は常に自分と向き合いながら生きている。
自分の心の声と会話している。
まずは、他人と接触した時。
普通の人であれば一日のうちに、必ず他人と会話をする。他人とは自分以外の人間の事であり、家族だって他人である。自分以外の生き物なのだから。
人は誰かと関わらずに生きていくことは出来ない。
買い物しなければ食料を得る事さえ困難なのだし。だから、必ず他人と接することになる。
接触の第一段階は視認したとき。
他人の容姿から受ける印象。それは着衣であり、いでたちで在り、体形であり、表情。
第一印象の着目点は人それぞれであろうが、『好みの顔』であるのか『服装かっこいい』であるのか、とにかく他人を判別するところから始まる。僕はそうだ。
街で、店ですれ違う他人を一々判別している。
第二段階は、会話や話しかけられた時。分かりやすいのは『店員』だろう。だまっていてもあちらから声を掛けられる。「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」こんな声に逐一反応してしまう自分は、なんて人がいいのだろうと思ってしまう。
視認や反応において、その都度自分の心の中では『感じている』し、『思っている』から事象に対して心が対応している状態だと思う。だから、小さな心の声となって頭の中に聞こえている。自分の内なる声が。
生きているとは、『思ったり』『感じる』事を指すのだと思う。
『思う』『感じる』ということは何も、わざわざ他人に接しなくても自発的に湧き上がる事象である。
携帯をいじっていても、テレビを観ていても、無音の部屋でぼ~っとしているときでさえ、内なる声は自分の内部から聞こえてくる。自分の事を考え、他人を想い、何かの未来を予測したり計画を立てたり。
人には108つの煩悩があると仏教では言われているようだが、『内なる声』とは、そのどれかに当てはまることのように思える。
試して頂きたい。『無心』が如何に難しい事なのかを。『無の境地』が如何に凡人にとって不可能であるかを。
人は必ず何かを感じ、何かを思う。そうせずにはいられない生き物なのだ。
ここまで、少し難しく書いてしまったけれど、そんな深い意味は無いのです。
普段僕たちが自然と、何となく行っている心の動きや脳の働きを考えてほしかったのです。
心の声とは心の動きです。何気なく生きている僕らは、何気なさの中で必ず刺激を受けています。他人から。もしくは自分から。
何かを『考え』『思い』行動する。この繰り返しで僕たちは今日にいます。このことは『明日への備え』を無意識に行っているからではないでしょうか。もっと言うなら『明日への希望』を感じ、期待しているからではないでしょうか。
きっと誰にとっても、いや、凡人の僕らにとって、日々は変わり映えのしない淡々とした出来事の繰り返しのはずです。幸せを感じる事より、不運を感じる事の方が多い。しかし僕らは生きなければいけない。生きるしかない。
突如として宝くじが当たるような、白馬の王子様が連れ去ってくれるような、そんな奇跡は起こりません。
みんなそんな事を、当たり前のように知っているから、理解できているから凡人が垂れ流すリア充なインスタをついつい観てしまうのだと思う。その他大勢の人たちの、ほんの一瞬のリア充ぶりを切り取った事象の集まりを。
羨ましがる心は、自分への期待と、頑張る気持ちがあることの証明だと思う。
少しでも誰かの心に響けたら!!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。