ホントは とじぇね

ホントは寂しがりやのシングルファザーが叫ぶ! 誰かに届け!誰かに響け!!

『行け!稲中卓球部』で笑えなくなったって事は、大人の階段をだいぶ昇ってきたって証拠なのかね

『ドリフターズ』『バカ殿』で基本講習を終え、『ウッチャンナンチャン』と『ダウンタウン』で応用過程を無事終了し、アイデンティティが芽生えた時期に出会った。

高校時代という、今思えば異常なまでのテンションにピタリとはまった笑いが『行け!稲中卓球部』。いつしか笑いのバイブルそのものになった。

何度読み返しても声が出るほどの笑いをもたらし、年齢を重ねた中でも『稲中魂』を感じた時には、己の精神の若さを誇らしく思ったものだ。

 

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最近、本気で笑ったこっとてあるのだろうか?

思いっきり笑っているようで、実のところ、どこか相手に合わせた愛想笑いを含んだ対応をしていてはいないだろうか。

 

笑うことっていうのは自己表現の一つで、コミュニケーションでは重要なアイテム。だからこそ、微笑んだり、口角を上げたり、声を出したり、手を叩いたりと、様々な表現で『楽しんでる自分』を相手に伝える。

 

若かりしころは、純粋に楽しいから笑えた。笑いは自然に『湧き上がるもの』だった。それが社会にでたら、相手との良好な関係を築く『アイテム』として『使用』するようになった。こんな事を繰り返してたら、いつのまにか『本気の笑い』を失ったような気がする。

 

いつだっただろう。腹を抱えて涙を流して本気で笑ったの。もう記憶に無いな・・・

 

 

子供のころに見上げていた大人って、立派で隔たりのある存在だった。子供から大人へのレベルアップは、効果音でお知らせが来たり、脱皮して皮が剥けたりと、何か明確な印や境目が自分の中に出来るものだと思っていた。でも実際はそんなことなんて起きなくて、いざ自分が社会に出てみたら、子供の延長が大人であり、そこに隔たりなんてなくて、やんちゃな人は基本的に、いつまでもやんちゃで、悪い奴の基本は、いつまでも悪いままだ。みんな、自分がいつ『大人』になったのか明確な認識の無いまま今日に至っている。

 

進学や就職で環境を変えることが出来る代わりに、人間関係の再構築を余儀なくされる。特に社会に出ると、ほとんどが利害関係の鎖で結ばれた縦と横の繋がり。『良好な人間関係』を求められるし、それを維持しようとすると、どうしても自分の感情を素直に表現することを抑制しなければならない。それはパートナーに対しても必要な事。自分以外と接するときには常に気遣いを求められる。

 

自分の感情を抑制することってキツい。感情とは起伏があることだから。登ったり下りたりしなきゃならない。抑制するってことは、上げ下げを均すってことでしょ。アゲアゲの時には「楽しい!」「うひょひょ~い!」って表現したいし、落ちているときには「辛い」「ムカつく」って吐き出したくなる。

でも実際どうだろ。自分の感情を素直に誰かにぶつけるって、なかなか出来ない。相手の気持ちを考えてしまうから。『不』の感情なんて誰も聞きたくないだろうし、他人の『リア充』なんて、妬みの種だ。「素敵な異性と仲良くなれた!気分アゲアゲ!」なんてパートナーには言えないし、そんな意味では一人の時以外、全ての感情を解放する時間って、本当に少ないと思う。だから『一人カラオケ』『一人旅』とか流行りだして、自分を解放する時間を作ろうとするんだな。

 ひと昔前は一人で行動していること自体、世間体が悪くて「友達とかいないのかよ?」みたいな目で見られてたけど、今はみんな『一人』の意味を理解するようになったから、ほっといてくれる。そして一人行動する人も、他人を気にしないことが目的だから、はなっから周囲を気にしないように努める。そのぐらい世間的に『一人の時間の重要性』が浸透してきたし、気持ちはみんな一緒なんだって証拠でしょ。そして価値観の多様化と細分化がもたらしたものは、『共感してくれる人』を見つけづらくしたってこと。僕の楽しいがあなたの楽しいじゃ無い場合が多いし、僕の嫌いがあなたの嫌いじゃ無い場合も多いから、自分の事を気軽に話せなくなった。

 

昔みたいに暴力OK!弱い奴は負けて当然!という文化から、『共存こそ美しい』『弱者にも救いの手を』という、ある意味文化の成熟が、個人の感情抑止を強制する土壌になっていったんだと思う。それこそ『偽の共感』『繕った共感』が上手な人が世渡り上手になっている。他人に不愉快な思いをさせたり、争いを避ける為に。「生きる為に他人なんか気にしてられっか!」から「儲ける為に他人を大事にしよう。お金は他人から集めるのだから」に変わった。

 

昭和生まれの僕は、現代の世の中が、物事の『些細な事』に敏感になったなぁと思う。暴力OK!(ちょっと言い過ぎか)バブル最高!とか、大きな出来事が目立たなくなった分、いままで目立たなかった小さな出来事が日常になって、結局のところ小さな上げと下げを感じるセンサー感度に変わっただけ。たとえば腕力の力から、言葉の力に。

 人々のセンサー感度が上がった事で、ハラスメント問題が湧き上がってきたり、無敵の人を生み出したりしているのでは?って思ったりもする。「気に食わないヤツは殴り飛ばしてやる!」っていう気概が『悪』になったしね。ホントは分かりやすくて一番いいような気がするのは僕が昭和だからですね。

 

結局のところ人間社会で生きるという事は、必ず理不尽な事が起きたり、不運な事が起きたりと、キツく辛い事の繰り返しだ。楽しい人がいれば、悲しい人がいて、笑っている人がいれば、怒っている人がいる。考えや価値観の違いが生み出すすれ違いは、個性の証拠であり永遠に無くならないのが当たり前だ。人は皆違う生き物だからね。

 

こうやって物事に『原因と結果の法則』を当てはめて、「ああやれば、こうなって」「こう言えば、ああなって」とか、自分より周囲の物事への気遣い、心遣いが出来るようになったら、いつしか『稲中魂』を忘れた自分がいた。

 自分の事より『仕事』や『他人との関係』をプライオリティの上位に位置付けるようになっていた。『我』を通すことと『己』を貫く事の違いをしっかりと分けて考える力が必要。本来全ては自分の為にやっていること。仕事も人間関係も。なのに気づいたら自分がすり減っていて、素直に笑うことすらできなくなって、一人の時間を欲するようになっている。

 

SNSの創業者の誰かがこのような事を言っていた。

生きる意味なんて本来、人間に必要ない。死ぬまでの時間つぶしをしている事に意味を持ちたい人が考えればいい。

 

 

何のために生きるかなんて考えるだけ無駄で、生きる為に生きている。生きる為に仕事をし他人と関りを持っている。それは全て『自分』が生きていることが基本。だったらもっと自分を大切にしたほうがいい。子供みたいに無邪気に振舞うことは出来なくても、せめてしっかりと『自分』を感じられる振る舞いをしよう。勇気を持って優先順位を『自分』に切り替えよう。

 

昔、大人が言っていた。「今が一番人生で楽しいときだよ」って。それは僕が『行け!稲中卓球部』で大爆笑していた時期だ。

今の自分が大人の階段のどの付近にいるのか分からないけど、とりあえずこれから少し下ってみようと思う。『稲中』で笑えるところまで。

 

 

少しでも誰かの心に響けたら!!

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。